
憧れの国井律子さんが愛するイタリアの食卓
バイク乗りとして、そして一人の自立した女性として憧れ続けている国井律子さんですが、彼女のエッセイを読んでいると、無性に旅に出たくてたまらなくなります。
中でも、彼女が度々訪れ、深く愛している国、イタリアに関する描写は別格です。
バイクでトスカーナの丘陵地帯を風を切って走り、ふらりと立ち寄った小さな食堂(トラットリア)でワインとパスタを豪快に楽しむ姿。
その文章からは、太陽の匂いや乾いた風、そしてニンニクとオリーブオイルが焦げる香ばしい香りまで漂ってくるようで、読んでいるだけでお腹が鳴ってしまうほどです。
彼女の著書やブログを通じて、イタリアという国が単なる観光地ではなく、食と生活が密接に結びついた情熱的な土地であることを知りました。
特に印象的なのは、現地のマンマ(お母さん)たちが作る料理の数々です。
気取ったレストランのコース料理ではなく、大皿にドカンと盛られたパスタや、庭で採れた野菜をただ焼いて塩とオイルをかけただけのシンプルな料理。
私も家族にこんな生命力溢れる料理を食べさせてあげたい!と強く感化されました。
それが、私がイタリア料理という底なし沼のような奥深い世界に足を踏み入れるきっかけとなったのです。
素材と対話するイタリア料理の真の難しさ
意気揚々とキッチンに立ち、イタリア料理に挑戦し始めてすぐに気づいたのは、シンプルな料理ほど難しいということでした。
日本の家庭料理、たとえば肉じゃがやカレーなどは、出汁や調味料を組み合わせて味を重ねていく足し算の料理が多い気がします。
ですが、イタリア料理、特に国井さんが愛するような現地の味は、素材そのもののポテンシャルを引き出す引き算の料理です。
カプレーゼ一つとっても、ただトマトとモッツァレラチーズを切って並べれば良いというわけではありません。
完熟トマトの甘み、チーズのミルキーさ、それらを繋ぐオリーブオイルの鮮度と岩塩の塩気。
一つひとつの素材が上質でなければ、決して感動する味にはならないのです。
また、レシピ本に書かれている適量や少々という言葉の重みも、イタリア料理では全く違って感じられます。
例えば、パスタを茹でる際のお湯の塩加減。
海水程度の塩分濃度でとよく言われますが、実際に1%〜1.5%の塩分濃度のお湯で茹でてみると、麺自体にしっかりと味がつき、ソースと絡めた時の一体感が劇的に変わります。
これまでは「もったいないし、塩分控えめがいいかな」と少量の塩で茹でていましたが、それが味のボヤけた締まりのないパスタの原因だったことに気づかされました。
ニンニクを炒める時もそうです。
強火で一気に加熱すれば焦げて苦味が出るだけですが、冷たいオイルから弱火でじっくりと香りを移すことで、食欲をそそる甘く芳醇な香りが生まれます。
細かな工程の一つひとつが素材との対話であり、それを疎かにすると途端に味が落ちてしまう。
国井さんがエッセイで語る何気ない一皿の裏には、実は計算し尽くされた技術や、長い歴史の中で培われた知恵が詰まっているのだと痛感しました。
失敗して気づいた乳化の壁とマンマの偉大さ
イタリア料理の修行(といっても自宅での独学ですが)において、私が最も苦戦し、そしてその奥深さに感動したのが乳化というプロセスです。
ペペロンチーノ(アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ)を作ろうとした時のこと。
最初はただ、茹でたパスタをニンニクオイルで和えればいいと思っていました。
ですが、出来上がったのは、油でギトギトしたパスタと、お皿の底に溜まった茹で汁という、分離した悲しい一皿。
国井さんが食べていたような、ソースがとろりと麺に絡みつく艶やかなパスタとは程遠いものでした。
調べてみると、茹で汁とオイルを激しく混ぜ合わせ、水分と油分を一体化させる乳化こそが美味しさの鍵だと知りました。
タイミングを見計らって茹で汁をフライパンに加え、鍋を揺すりながら素早く混ぜる。
この工程がうまくいった時、ソースは白濁してとろみを帯び、パスタと一体化して口当たりが驚くほど滑らかになります。
「これか!」と成功した時は、キッチンの真ん中で一人ガッツポーズをしてしまいました。
たったこれだけのことですが、プロの料理人やイタリアのマンマたちは、この加減を計量スプーンなど使わずに、長年の勘と経験で瞬時に行っているのですから驚きです。
イタリア料理は奥が深く、知れば知るほど難しい。
でもだからこそ、うまく出来た時の喜びもひとしおです。
いつか本場のイタリアで国井さんのように「ボーノ!」と叫ぶ日を夢見て、今夜もフライパンを振りたいと思います。
